

| 本坊庭園 | ||||
| 険しい狭い参道を10分ほど歩くと新道(車道)と並行する先の川の橋を 左に渡ると ボタン園と石段の先に本坊庭園(文部省指定庭園)がある。 郷土の詩人北原白秋の「父恋し、母恋してふ、子のきじは、赤と青にも 染められにけり」の句碑が前庭にある。 本坊庭園は室町時代の作で、作者は雪舟(1420年~1506年)であろうといわれている。 東南北に山を囲らし心字の池を中心とする庭石の配置、植込み、 池にそそぐ暖、 急の滝など、自然と人工の美が溶け合い、 春夏秋冬いつ訪れても飽きない名園である。 特に正面の愛宕山からのぼる中秋の名月はすばらしく、その月が心字池の写るように 工夫された借景式の泉水庭である。 新緑と紅葉の頃はことのほか美しい。 本坊前には大きな銀杏樹があり、紅葉時期には黄色のジュウタンで敷きつめられる。 傍に北原白秋自筆による碑が立っている。 「ちち恋し 母恋してふ 子のきじは 赤と青とも そめられにけり」 |
|
|||
| 千体仏堂 | ||||
|
|
柳川藩主田中吉政の家来、林五郎左衛門の娘、操(みさお)は婿養子の 婚約者幾之助が宮川右内に船小屋で鉄砲で殺されのを知り敵討ちを 決断16才の時である。 家を出て10年目元和7年(1621)四国の徳島で宮川右内を探し やっと亡き夫の仇を取った。 仇を取ったのち柳川に帰り信仰のあった観音堂のある清水の中腹に 称名庵を作り住みつき両者の霊を慰めるために千体仏を刻んだ。 |
|||
| 五百羅漢 | ||||
| 釈迦の弟子500人の「自覚」への道を志す修行僧たちの像、 それが五百羅漢である。 文化文政(1804年)の頃から大正年間にかけて奉納。 いつの頃からか、心ない者により首がことごとく落とされ「首なし地蔵」と呼ばれていたが、 最近になって誰かの手で再び首がつけられ、 新しい羅漢の復活となっている。 |
|
|||
| 仁王門 | ||||
|
|
延享3年(1746年)、藩主藩民の寄進によって建立された。 右の仁王像は口を大きく開け「阿」を表しすべてのものの発生、 根源を意味し、 左の像は口を結んで「吽(うん)」を表し すべてのものの帰着を意味する。 寺院浄域の入口にあり仏法を守護する役目を持つ「金剛力士」の像を 安置した門で、 仁王像の高さは、約2,4米ある。 仁王像は大力を授けるということから身体強健を祈って大きな草鞋を奉納し、 又その草履に触れると脚が強くなるといわれている。 |
|||
| 山門(三門) | ||||
| この山門は延享2年(1745年)年柳川六代藩主立花貞則が願主となり京都の 大工高田蕃蒸(ばんしょう)に命じて建立されたものである。 山門は三門というのが本当で、木造入母屋二層、階上階下とも36,3㎡、高さ10,8mである。 当時の建築技術の粋を集めて作られ、階上の内部は見事な作りで、 文殊菩薩、釈迦如来、四天王などが祀られている。 建築当初は傾いていたが、木材の乾燥とともに垂直になったと伝えられている。 造営当時は桧皮(ひのきかわ)葺きであったものが現在では銅板に 葺き替えられている。 昭和36年県指定重要文化財。 |
|
|||
| 清水寺本堂 | ||||
|
|
奈良時代の延暦23年(804年)7月垣武天皇の命により38才の最澄は 遣唐使として唐の天台宗を天台学を学んだ。 最澄は帰国した翌年の大同元年(806年)に 天台宗の本吉山清水寺(本吉普門院清水寺)を創建したと伝えられている。 伝教大師(最澄)作の本尊、千手観音が安置されている。 古来より、安産、子授け、縁結びの祈りが絶えない。 「よがんのん、あさがんのん」は本尊開帳の大祭である。 8月9日はら10日の朝にかけて大護摩祈祷が行われ、この日にお参詣ですると 四万六千日お参りした功徳があるといわれ、多くの参拝者が訪れる。 左側には阿弥陀堂の建物が鎮座してある。 |
|||
| 三重の塔 | ||||
| 三重の塔の前身九輪塔は1779年の創建で、単層の塔上に青銅の九輪を備えたもので、 瀬高地方出身の長崎丸山の遊女の寄進で建てられたと伝えられる。 三重塔は藩内各地の奉仕により棟梁の宗吉兵衛により大阪四天王寺五重塔を 手本に文政5年(1822年)に着工した。 棟梁の死亡したあと弟子達が受け継ぎ、当初計画の五重塔を三重塔に変更して 天保7年(1836年)に約14年間の歳月をかけて完成した。 塔の入仏式は天保15年11月23日藩内の僧侶全員を集めて、盛大に催され、 250両の費用を使ったといわれている。 美しい自然の中に、たたずむ朱塗りの塔は清水寺のシンボルとして 広く知られている。 古代建築の九州最古随一のものである。昭和32年県重要文化財。 |
|
|||
| 乳父観音 | ||||||
|
|
本吉山、清水寺の開祖 最澄の弟子の慈覚大師(円仁)は唐より帰朝の 時嘉祥元年(848年)に世の子供達が健全に育つようにとの願いをこめて、 観音像を彫刻し、お堂を建築し供養されたと伝えられる。 お乳が出るようにと母親の願いを一心に集める観音さまである。 お願いの時乳房の形どったものを奉納しこの観音さまにお参りする人が 多いのも母親の慈愛ゆえ。お乳が出るようになった祈願成就のお礼に、 絵馬や千羽鶴を奉納する風習も残っている。 乳父観音と乳母観音を用いる書があるが、清水寺の説明では、母(乳)と父の 両親に見守られ子供が無事成長することをを祈る観音さまで 「乳父観音」の字が正しく、古来から使用されたそうです。 |
|||||